その中で、22年前にいきなり報じられた若貴兄弟の父親が違うという、衝撃的な噂の真相も語った。当時、兄の元若乃花のタレント・花田虎上は先代の二子山親方の子で、弟の貴乃花親方は輪島の子供ではないかと、一部で報じられたことがあった。 貴乃花親方の息子はイケメン!?父親の後を継がなかったワケとは… 大人気力士大横綱である貴乃花元親方の父親は輪島大士さんではないかと噂になっていますね。, たしかに若貴時代を作った貴乃花元親方と花田虎上(花田勝)さんは兄弟でも似ていないともいわれていたことがありましたね。, おふたりの父親は元大関で、大活躍して大相撲を沸かせた二子山親方こと貴ノ花利彰さんということは良く知られていますよね。, ただ、貴乃花元親方と二子山親方こと貴ノ花利彰さんとはあまり似ていないともいわれていました。, このことから、輪島大士さんが貴乃花光司の本当の父親ではないかと噂がたつようになったようです。, 輪島大士さんは、昭和の大横綱である北の湖さんと並び、輪湖時代(りんこ)を作り上げたといわれるほど一世風靡しました。, 日本大学時代には2年連続で学生横綱に輝き、通算で14個のタイトルを獲得した輝かしい実績があります。, 日本大学を卒業する前の1970年に花籠部屋に入門して、1月場所に幕下で初土俵をスタートしました。, 大関になって4場所を経験した1973年5月場所で見事な全勝優勝を飾り、第54代横綱に昇格しました。, 初土俵から3年半の超短期での横綱への出世でした。横綱になってからは北の湖日本相撲協会前理事長とふたりで「輪湖(りんこ)時代」と呼ばれる相撲の黄金時代を作り上げました。, その後は、お驚きのプロレスラーに華麗なる転身を果たしてプロレスの世界でも大人気となり活躍しました。, 輪島大士さんは、2013年12月に咽頭がんの手術を受けて発声がうまくできなくなりました。, 2015年11月20日に北の湖日本相撲協会前理事長が死去した際には文書で、「俺はもう少し頑張る、よく頑張ったね、お疲れさまと言いたい」とコメントしました。, まずは若乃花こと花田虎上さんですが、花田虎上さんの画像をみると、父親である二子山親方こと貴ノ花利彰さんによく似ているように見えます。, 輪島大士さんが昭和の大横綱で、貴乃花元親方が平成の大横綱ということも共通点でしょうか。, 容姿だけではなく強さのDNAも受け継いでいると考える人がいても不思議ではありませんね。, 輪島大士さんが貴乃花元親方の父親ではないかといわれはじめたきっかけは、1995年に発売された週刊誌きっかけでした。, 貴乃花元親方が、実は二子山親方こと貴ノ花利彰さんの子供ではないと週刊誌がスクープしたのです。, 否定したうえで、貴乃花元親方は二子山親方こと貴ノ花利彰さんとの間にできた子供ということを話していました。, ただ、貴乃花元親方は父親が違うという週刊誌のスクープを信じていたともいわれています。, それ以来、母親である藤田紀子さんとは断絶状態が続いていて、話しもしていない状態だそうです。, その他にも、藤田紀子さんが浮気をしたのではないかと思わせるようなことがありました。, 二子山親方こと貴ノ花利彰さんの爪と髪の毛を残すように若乃花である花田虎上さんに伝えたそうなのです。, とても意味深な遺言ではありますが、このことが意味するのは二子山親方こと貴ノ花利彰さんも何かしら疑いの念を持っていたということでしょうか。, 貴乃花親方の母親である藤田紀子さんは完全に否定していますが、二子山親方こと貴ノ花利彰さんを含めて周囲からは疑いの念を抱いている人も多いのかもしれません。. Follow @honjitukaisetu 大相撲の第54代横綱の輪島大士さん(本名は輪島博さん)、が2018年10月9日に死去しました。名横綱だった輪島大士さんは大横綱である貴乃花元親方(貴乃花光司さん)の父親ではないかと噂されています。画像を観ると輪島大士さんと貴乃花元親方はそっ 関連記事 → 藤田紀子の浮気相手は輪島!?貴乃花との絶縁や離婚の理由に深く関係!? 部屋消滅に離婚、度重なる不運の後に新たに挑戦したいことは「絵本作家」!? 関連記事 → 花田美恵子の浮気相手は伊藤英明、青木堅治だった!? 貴ノ花 利彰(たかのはな としあき、1950年2月19日 - 2005年5月30日)は、北海道室蘭市出身の元大相撲力士。現役時は二子山部屋所属であった。最高位は東大関。本名は花田 満(はなだ みつる)。身長183cm、体重114kg、血液型はB型。得意技は左四つ、寄り、吊り、上手投げ。「土俵の鬼」と謳われた第45代元横綱・初代若乃花の弟という血筋のよさに加え、細身で均整のとれた体格と甘いマスクから、角界のプリンスと呼ばれ、[1]大相撲の歴史上、また日本のスポーツ史上屈指の人気を誇ったと言われる。位階は従五位旭日小綬章受章。, 1993年に次男の花田光司が四股名を「貴花田」から「貴ノ花」に改名した後は、「初代貴ノ花」または「先代貴ノ花」と呼ばれている。, 北海道室蘭市で10人兄弟の末っ子として生まれる。初代若乃花と若緑陸奥之丞(三段目)の弟。大豪久照の義弟。第66代横綱・3代目若乃花で現在はタレントの花田虎上と、「平成の大横綱」と呼ばれた第65代横綱で現在は絵本作家の貴乃花光司の父。母は武ノ里武三の又従姉。元妻は元女優で現在はタレントの藤田紀子(結婚当時は憲子。2001年離婚)、孫(次男貴乃花光司の長男)はタレント・靴職人の花田優一。, 満が誕生した時、長兄の勝治(若乃花)はすでに22歳で幕内力士となっており、巡業がてら帰省した際に実家で初めて満と対面した。最初は結婚した姉の子供だと思っていたが、両親から「お前の弟だ」と聞かされて仰天し、「いい加減にせえや。何人産んだら気がすむんだ」と半ば呆れたという。1955年に父親が死去、残された母や兄姉は兄である初代若乃花の下に引っ越しをすることになり、家族は東京に引っ越した。, 杉並区立東田中学校在学中に水泳で名を上げ[5]、オリンピック選手の候補になるほどだった。専門はバタフライで、100mで中学新記録を出し[6]、1968年メキシコシティーオリンピック代表でメダルも期待された高田康雄とライバル関係にあった。2人で交互に中学記録を更新したほどの実力でオリンピック候補選手だった。, しかし、兄である二子山(初代若乃花)の相撲部屋への入門を希望した。二子山はもう一人の弟である陸奥之丞が失敗するのを目の当たりにしていたため猛反対した[7]。また二子山はあるテレビ番組で『オリンピックのドン・ショランダーの活躍を見て、弟には相撲よりも水泳のオリンピック選手になってもらいたかった。』と語った。結局母が説得してくれたので、「いいか、今日からは父(22歳離れた兄である勝治は、父が早くに亡くなった後は兄弟たちの父代わりだった)とも兄とも思うな、敵だと思え」と兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。後に巷間に名言として伝わった「水泳じゃメシは食えない(から力士になろうと思った)」という発言については、師弟揃って否定している。, 1965年(昭和40年)5月場所、本名のままで初土俵。兄から師匠へと立場の変わった二子山は徹底的に厳しく指導した。「弟だから甘くしている」と言われないため、二子山は貴ノ花にわざと厳しく接していたと言われている。[8]また兄弟子たちからも限度を超えたしごきを受けたとも伝わる(二子山の指導が厳しかったため、弟が仕返しされるという図式)。二子山はまた日頃より「相撲に入った以上、痛いとか苦しいということを口にするな」と教えていた。そのため貴ノ花は1965年7月場所を6勝1敗の成績で終えて序ノ口優勝を果たした後に、東京へ帰り日大病院に入院した時も病気が悪化するまで誰にも言わずに頑張った[9]。, 当時まだ日本大学の相撲部員だった輪島が二子山部屋に稽古に来た際、十両時代の貴ノ花が相手をしたことがあった。年齢は輪島の方が2歳上なのだが、さすがにプロの十両力士の方が強いだろうという周囲の予想に反し、貴ノ花は学生の輪島に負けてしまった。これに怒った二子山が「おい!黒い廻しを持って来い!」と怒鳴ったというエピソードがある。相撲の稽古用の廻しは、十両以上の関取が白で、幕下以下は黒という決まりがあり、二子山は学生の輪島に負けた貴ノ花に対して「お前には関取の資格はない!」と怒ったのである。, 1965年7月場所序ノ口優勝、1968年(昭和43年)3月場所に18歳0ヶ月の史上最年少(当時)で新十両。新十両の場所も8勝7敗と勝ち越して初土俵以来17場所連続勝ち越しの新記録(当時)を樹立した[10]。同年5月場所に7勝8敗と負け越したものの9月場所で11勝4敗の成績で十両優勝を果たし、11月場所には新入幕を果たした。18歳8ヶ月15日での入幕[1]は武藏山の19歳5ヶ月1日を破り、これも当時の新記録であった[11]。また、これによって兄の若乃花と共に明治以降では初の兄弟幕内力士となった。[12], なお新入幕当時、二日酔いで稽古を休もうとしたところを二子山に見付かったことがあった(当時未成年であったが、取的時代の兄弟子の強要もあり、飲酒は常態化していた)。激怒した二子山は貴ノ花を青竹で殴って叩き起こし(聞くところによると布団が血で真っ赤になるまで叩き付けたらしい)、稽古場に連れて行ったという[13]。, 新入幕の1968年11月場所は8勝7敗と勝ち越したが、翌1969年(昭和44年)1月場所は7勝8敗と負け越し。次の3月場所は、初日黒星の後2日目に急性上気道炎のため不戦敗・途中休場。7日目から再出場したが5連敗、この場所一つも白星を挙げられず(8敗7休)に12日目に2度目の不戦敗・再休場となる。, その後一度十両に下がり、再入幕するまでの間のある時に40度の高熱を押して出場した結果肝硬変寸前の状態になったことがある[9]。1970年(昭和45年)1月場所、花田から貴ノ花と改名し再入幕、10勝5敗で敢闘賞を獲得した。同年11月場所では7勝8敗と負け越したものの連日の健闘が讃えられ、会場(当時)の福岡スポーツセンターから表彰された。その後、横綱・大鵬との対戦(1971年(昭和46年)1月場所5日目)で足を負傷するが、5月場所5日目にその大鵬に黒星をつけて名を上げる(大鵬はこの日の敗戦を最後に引退)。大鵬との対戦成績は通算2勝3敗であった。この1月場所は途中休場の憂き目にあったが、1月20日に誕生した長男の勝に病院で対面して「まずこの子のためにも頑張らなきゃ」と意識が変わったという[14]。その後も、9月場所6日目に大関・清國に足を取られながら逆転勝ちなど、驚異的な足腰の強さを発揮、角界一の人気を不動のものとした。翌7日目には横綱・玉の海と対戦、もろ差しになり土俵際まで攻めながら、差した両腕を抱えられ吊り出しに敗れた。玉の海とは7回対戦したが1度も勝てず、玉の海の堂々とした相撲ぶりや稽古熱心さを尊敬し目標としたものの、1971年10月に玉の海が急逝したためついに恩返しをすることはできなかった。また、新入幕当時からの対戦相手として羽黒岩と大麒麟(対戦当初の四股名は戸田、麒麟児)を苦手としていた。両者とも喧嘩四つ(玉の海同様、羽黒岩、大麒麟も右四つ。貴ノ花は左四つ)の相手であり、立合い一気の押し相撲を得意とする羽黒岩には通算3勝9敗(1不戦敗を含む、貴ノ花が大関昇進後も1勝3敗)、柔軟で差し身が良く腰の重い大麒麟には通算6勝13敗(貴ノ花が大関昇進後も2勝6敗)と、玉の海同様苦手な対戦相手だった。, 大鵬の1人勝ちにより低迷していた大相撲人気が息を吹き返したのは貴ノ花が幕内に登場したのがきっかけであるとされている[15]。, 「かばい手」「つき手」論争を巻き起こした横綱・北の富士戦(1972年(昭和47年)1月場所8日目)は、立合いから攻めに攻めた北の富士が土俵中央で外掛けを強襲、しかし貴ノ花が残したため北の富士がもう一本の足も外掛けにして両外掛けの体勢。掛けもたれる北の富士を貴ノ花がわずかに左へ振ったかとおもうと、北の富士が右手を土俵に着いた[1]。約5分間も協議が続く大物言いとなるが、結果審判団は「かばい手」と判定して北の富士の勝ちとした(貴ノ花は既に「死に体」だと判断された)。このとき「つき手」を主張したものの受け入れられず差し違えとされた立行司25代木村庄之助は千秋楽まで謹慎となり、翌3月場所前には廃業に追い込まれる事態となった。当時の映像(正面から)を見ると、どちらが有利か際どい内容である。一方、死に体の判断では足の形が重要な基準となるが、写真を見ると(東方からのものが多い)貴ノ花の両足はつま先立ちながらも、足の指でしっかりと土俵を噛んでおり、北の富士をうっちゃろうとする力にあふれているようにも見える。, なお、翌3月場所7日目に両者は再戦、このときも土俵際でもつれる展開となり、またも行司差し違え(このときの行司は22代式守伊之助)、今度は北の富士が勇み足を取られ敗れている(取組後に北の富士は「“かばい手”はあるのに“かばい足”はないのか」と語ったといい、2016年に出版された自著では「僕は自分の顔をかばっただけ」と改めてかばい手であると主張[16])。こうした貴ノ花の強靭な足腰、奇跡的な逆転勝利の連続に対し、当時の相撲解説者・玉ノ海梅吉が「貴ノ花の足腰にはもうひとつの生命がある」との名セリフを残した。, 同門の花籠部屋に入門した輪島とはライバル同士になり、激しい争いを演じた。その一方、プライベートでは大の親友だったとも言われている。両者大関取りとなる1972年9月場所千秋楽では、輪島との水入りの熱戦で負けはしたものの、場所後に二人が揃って大関に昇進した[1]。貴ノ花は昇進前3場所で33勝挙げた一方、直近場所が10勝どまりであった点で注文が付いたが、前述の熱戦が評価されたことや、輪島と一時代を築き上げることが待望されていたことが後押しになって大関推挙が実現した[17]。この千秋楽は当時の皇太子一家(上皇、上皇后、今上天皇、秋篠宮)が観戦しており、この大熱戦に大喜びした様子がNHKのテレビ中継を通して全国に流れた。, 大関昇進当初、貴ノ花は「自分の場合は、周りが大関、大関と騒いでくれたのが結果的に良くって、なれたものと思う」と自分が昇進の機運に乗っかって昇進したと自覚するところを語り、大関昇進伝達式の使者が来るまで昇進を実感できなかったという[18]。またこの頃、体力的な問題について記者から聞かれた時には「自分じゃ無理に体重を増やしてもかえっていけないと思っているが……総合的な体力は、そりゃもっと強くしたいがね。それよりもこのままの体でもっと強くなればいい」と答えている[19]。太れなかったことに関しては、後に北の富士が「貴ノ花の阿佐ヶ谷の頃の部屋の食事を見たら、野菜中心。まあ、肉も食べてたんだろうけど」と当時について証言している[20]。, 輪島は大関4場所目に全勝優勝して綱を取ったが、貴ノ花はなかなか優勝できなかった。周囲からは「貴輪時代」(きりん じだい)を期待されたが結局のところ実現せず、その後に急成長してきた怪童・北の湖に実力面で追い抜かれ、「輪湖時代」(りんこ じだい)が訪れることになったのである。, 1974年(昭和49年)7月場所の貴ノ花は、休場明けで体調が万全でなかったが、優勝争いのトップを走っていた大関北の湖と12日目に対戦し、吊り出しで破った。この一番は、小兵の貴ノ花が巨漢の力士を豪快に破った名勝負の一つとして記憶されることになる。北の湖は11日目まで全勝で、横綱輪島に2差をつけ優勝を手中に収めたと思われていたが、この貴ノ花戦で敗れたこともあって千秋楽には1差を逆転され、輪島に優勝を奪われた。ただし前の場所で優勝していた北の湖は、場所後に横綱に昇進している。, 1975年(昭和50年)ごろのある時から、貴ノ花は「ただガマンすることではダメなのだ。ガマンをしたって病気は悪くこそなれ、良くはならない。悪いところを治療していかなければならない」ということに気づいた。以来、稽古が終わって風呂をあがると温湿布を約20分間続け、東京にいるときは温湿布の他に特殊な器具で首と腰椎を引き延ばす治療も行い、外出する時には腰にカイロを入れ保温することを忘れなかった。そうした努力もあってか、3月場所には場所中に若三杉と毎朝10番から20番取ってもスタミナ切れを起こさない体が出来上がり、11日目の豊山を終えた時点で「今場所は疲れはほとんど残っていない。まだ5分ぐらいの長い相撲を3倍ぐらいとっても平気だ」といつになく強気な言葉を吐いていた[21]。千秋楽は、13勝1敗の貴ノ花と12勝2敗の北の湖の対戦となり、貴ノ花は勝てば初優勝だったが、負けて13勝2敗同士の優勝決定戦にもつれ込んだ。休憩時間に北の湖は床山に髷を整えてもらう中黙想していたのに対し、貴ノ花は支度部屋で乱れた髷もそのままに黙々と四股を踏み続けていたという。決定戦で貴ノ花は仕切り2回目でつっかけ、北の湖もこれに対して4回目の仕切りでつっかけた。しかし時間いっぱいになってからはお互いにけん制して立てず、制限時間後4回目に立った。北の湖は右で上手を引き、貴ノ花は左を引きつけ、左に頭を下げて食いついた。正面土俵で北の湖は強引な上手投げを放ったが、腰の据わっている貴ノ花はぐっとこらえた。貴ノ花は右手を送り、左手を浅く入れてぐっと腰を落とし西土俵によって出ると、北の湖はこらえきれずに土俵を割った[22]。北の湖を下し、悲願の初優勝を果たした[1]。その瞬間、場内では興奮した観客が投げた座布団がかつてないほどに乱れ飛び、土俵や天井が見えなくなるほどの光景となったが、これも貴ノ花の人気がいかに凄まじかったかを物語るものである。優勝旗は本来なら審判部長の高砂が渡すべきところだったが、協会の粋な計らいによって、兄であり師匠でもある二子山審判部副部長の手から渡された。優勝旗授与の瞬間、「土俵の鬼」と言われた二子山の目には涙が浮かんでいたのを相撲中継のカメラが捉えた。二子山はこの優勝劇に対して「ワシが部屋を持って13年。早く関取を出したいとは思ったが、まさか、13年目で優勝力士が出るとは思わなかった。貴ノ花は妻を持ち、子を持ち、人の親となって大きく成長した。技術的にはまだまだだが、今度は、当然横綱を目ざさなくてはならない。そのためには今までどおり、相撲に関しては兄でも弟でもない師匠として厳しく鍛えていかなければならないと思う。花田家はオクテだから、貴ノ花が本当の力を発揮するのはこれからと信じている。最高位を目ざし、相撲命の灯が消えた時、兄弟として盃をくみかわしたい。それまでは横綱を目ざして2人で頑張る……」とコメントしている[23]。大鵬親方も「わずか2場所ぐらいの間にこんなに大きく変わった人も珍しい。相撲の取り口もガラッと変わったし、精神的にも著しい成長の跡が伺える」と驚きの声を上げていた[23]。, 同年9月場所にも北の湖との優勝決定戦を制し12勝3敗で2回目の優勝[1]。2回の優勝の後には横綱昇進を期待されたが、次の場所では好成績を出せず、綱取りは果たせなかった。このころから腎臓病や足の怪我に悩まされていたといわれ、開運を期待して貴乃花と改名もしたが効果はなく、すぐに元の貴ノ花に戻している。, 結局のところ優勝はこの1975年の2回のみで、この頃が力士としての全盛期だったといえる。以後はゆるやかに力が衰えていき、大関在位50場所という当時史上1位の記録は立てたが、優勝争いに絡むことはほとんどなくなり、1977年(昭和52年)1月場所に12勝3敗、翌3月場所に13勝2敗と2差ながら優勝次点の成績を収めた時を例外として、以後は新聞記事で「貴ノ花」の名が「横綱」の文字に絡むことも絶えた。, 当時最大級の巨漢だった高見山との取組は牛若丸と弁慶との対決にもたとえられる大相撲きってのゴールデンカードとして知られた。45回対戦し、貴ノ花の29勝16敗だったが、数々の名勝負が生まれている。両者最後の対戦となった1980年(昭和55年)9月場所7日目の取組では、土俵際での高見山の左小手投げと貴ノ花の右掬い投げの打ち合いで、高見山の右手が先に落ちたように見え、行司二代目式守伊三郎の軍配も貴ノ花に上がった。しかし物言いがつき、貴ノ花の髷の先端がわずかに早く土俵に付いたとして、軍配差し違えで高見山の勝ちとなった。投げの打ち合いの際、貴ノ花は一切手を付かなかったため、鼻を土俵に強打して出血していた。取組後のインタビューで、アナウンサーの「髷がなければ勝っていましたね」という問いに対し、「髷がなければ相撲なんて取れないよ」と返した機転でも有名になった。, 弟弟子である横綱・二代目若乃花が北の湖と優勝を争った際には、見事な援護射撃も行っている。この頃までには、脂が乗り切った大横綱の北の湖との取組ではよほどのことがない限り貴ノ花が勝つことはなくなっていた。ところが貴ノ花は立合いで一瞬の変化を見せ、北の湖は全く為す術もなくあっさりと土俵を割ってしまった。北の湖は取組の後で「他の力士なら変化もあるだろうと警戒するが、貴ノ花関は今まで一度も変化したことがないから、全く無防備だった」と語っている。貴ノ花が本場所の土俵で立合いの変化を見せたのはこの一回だけだと言われており、これも貴ノ花の土俵態度をよく物語る逸話の一つとして知られている。貴ノ花は黒姫山との対戦を終えたある時花道で観客から「何だ、貴ノ花でもあんな相撲を取るのか」と投げかけられ、以来絶対に変化しないように誓ったという[24]。, 1980年(昭和55年)1月場所は、7勝8敗と大関昇進後唯一の皆勤での負け越しを喫し、この頃から貴ノ花の限界説が危惧され始める。「次で負け越したら引退する」と、背水の陣で望んだ翌3月場所は5度目の大関角番を脱出し10勝5敗の成績を挙げ、なんとか面目躍如となったものの、この場所が貴ノ花の現役最後の2桁勝利となった。, 1980年11月場所3日目、大関候補と呼ばれ日の出の勢いだった千代の富士に一方的に敗れ、この時の相撲を引き金に貴ノ花は引退を決意したと言われている。自分と同じく軽量の千代の富士にはかねてから特に目をかけており、「喫煙を止めれば体重は増える。自分は結局止められなかったが、お前は止めろ」とのアドバイスによって、千代の富士はきっぱりとタバコを止めたという。その後千代の富士は「貴ノ花関のおかげで横綱になれた」とも語っている。, なお、後年に「昭和の大横綱」へ成長した千代の富士が、1991年(平成3年)5月場所限りで引退を決意したのは、奇しくも貴ノ花の実子である貴花田に、同場所初日の初対戦で敗れた事がきっかけと言われている。また、千代の富士の現役最後の一番となった同場所3日目の取組相手は、これも同じく貴ノ花の愛弟子だった貴闘力であった。, その翌場所、1981年(昭和56年)1月場所では当時前人未到の、大関在位50場所目を迎えた(現在は大関在位65場所・共に歴代1位タイの千代大海と魁皇に次いで歴代3位)。しかし序盤から波に乗れず、6日目の対蔵玉錦戦を最後に、30歳11か月でついに土俵を去っていった(7日目は引退により不戦敗、成績は2勝5敗)。実は、貴ノ花自身は翌7日目の対戦相手である朝汐戦を最後の相撲として取りたかったそうだが、師匠の二子山は「引退を口にした者が相撲を取ることは許されない。満、引き際というのは肝心なんだぞ」と止められたという。貴ノ花が引退した際、二子山は「さあ、これで初めて兄と弟に戻って、うまい酒が飲めるぞ」と喜んでいる[13]。, 朝汐が不戦勝の勝ち名乗りを受ける時、館内からは引退を惜しむファンから「たかのはなあ〜」の歓声が挙がっていた。この日の実況を担当した、当時のNHKアナウンサー杉山邦博は「今日、貴ノ花関が引退です……」と伝えた後に、思わず涙で言葉を詰まらせてしまった(この事から後に週刊誌などで「泣きの杉山」と書かれている)。その杉山の状況を察した、解説の玉ノ海は機転を利かせて、しばらくひとりで貴ノ花評を語り続けている。この場所貴ノ花は、力の衰えを感じそれを体重でカバーする為に禁煙を試みたものの、却って体調不安を起こす結果になった。[25]長年、頭からぶつかる相撲だったために頸椎を痛めているなど、満身創痍の状態での現役引退だった。ちなみに貴ノ花の子息である長男・3代若乃花は29歳2か月、次男・貴乃花は30歳5か月と、父親とほぼ同年齢の若さでそれぞれ引退している。, 引退後に年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方になる。1982年には藤島に名跡変更して初代若乃花の二子山部屋から分家独立し、藤島部屋を興した。後に長男の若花田(横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田(横綱・貴乃花)が入門し、大きな話題になった。卓越した指導能力は折り紙つきで、他にも、後に大関となる貴ノ浪、関脇の安芸乃島や貴闘力など有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。琴錦は藤島部屋の稽古について「あの部屋は稽古量が多い上に、一つひとつ中身が濃く無駄がない。最後の仕上げのトレーニングまで、若い衆だけでなく関取も含め全員でやっていた」と後年振り返っている[26]。歴史学者で江戸東京博物館名誉館長の竹内誠は、部屋の新弟子が相撲教習所に入所する度に藤島が挨拶に出向いたことを話しており、親方としての礼儀正しさを評価している[27]。未成年時代に兄弟子に酒を強要されたことから、弟子の飲酒に関しては気を遣ったという[28]。しかしその反面、パワー相撲を得意とする巨漢力士の育成は苦手で、豊ノ海、五剣山は将来を大きく期待されながらも、大きな体を活かした相撲を身につけることができず、期待にこたえることができなかった。同じく巨漢であった摩天楼と藤ノ花は関取にすらなることができなかった。, 1993年、兄である二子山の停年直前に年寄名跡を交換して年寄・二子山となり二子山部屋を継承、藤島部屋と二子山部屋の合併により二子山部屋は一気に大部屋になったが、当時の貴花田にとって数少ない強敵(通算対戦成績で負け越している)だった三杉里との対戦がなくなるなどの点が指摘された。そして1994年11月場所後に次男の貴乃花が横綱に昇進すると、二子山部屋は絶頂期を迎えた。1998年5月場所後には長男の若乃花も横綱に昇進し、兄弟同時横綱の壮挙が実現するが、その直後から若乃花・貴乃花兄弟の不仲や貴乃花の「洗脳騒動」など、周囲に暗雲が漂い始める。そして弟子の貴乃花が引退すると部屋を譲り部屋付きとなった(これを機に、二子山部屋は貴乃花部屋と改称)。, 日本相撲協会では1992年に監事(現在の副理事)、1996年には理事に昇格し巡業部長となった。同年に年寄名跡『二子山』の譲渡金およそ3億円の申告漏れを指摘され、巡業部長の職を解かれたが後に復帰、2002年には審判部長、2004年2月から事業部長に就任した。, 2003年秋頃からあごの痛みを訴えるなど体調を崩していたため、入退院を繰り返しながら病気療養を続けていた。2004年夏頃に再入院してからは、喉が詰まって普通に話しする事さえままならない状態となり相撲協会の職務を休みがちとなっていた。当初の病名は公には「口内炎」と発表していた。なお入院時には北の湖理事長(1期目当時)を初め、相撲関係者からの見舞いはほとんど断っていたという。, 2005年1月30日には、自らスカウトした愛弟子の音羽山(元大関・貴ノ浪)の断髪式に入院先の病院から駆け付け、国技館内の好角家からは大きな拍手が送られた。しかし、投薬治療が長く続いた影響か、この時の二子山の顔色は明らかに優れず、頭髪も薄くなっていた。また土俵に上がる際には、足がよろけて自力で登ることが出来ず、呼出の手を借りなければならないほど、体調は相当に悪化した状態だった。昭和の大相撲を彩り、一時代を築いた人気力士だった頃の面影はほとんど失われ、まるで別人のように衰えた二子山の姿に会場の好角家は衝撃を受け、涙を禁じ得ない者もいた。, この頃から重病説などが囁かれるようになったこともあり、同年2月23日にはそれまでの口内炎の病名を改め、次男の貴乃花から「口腔底癌」であることが発表された(現役時代からヘビースモーカーとして知られ、これが一番の病因とも言われる)。その後、二子山は意識不明の重体に陥り、3カ月後の5月30日に口腔底癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。55歳だった。結果的に同年1月の貴ノ浪の引退相撲が生涯最後の公の姿となった。その貴ノ浪も、10年後の2015年に43歳で死去している。, 自ら手塩にかけ育て上げた2人の愛息子であり、愛弟子でもあった若貴兄弟の確執を巡るスキャンダルに悩まされ、貴乃花部屋の規模も衰えて関取不在の状況となり、妻の憲子と2001年に離婚するなど、現役時代「角界のプリンス」と呼ばれた花形力士としてはいささか寂しい晩年であった。, 6月2日に各界著名人、ファンを集めて告別式が行われた。6月10日、従五位に叙せられ、旭日小綬章を授与された(叙位・叙勲の日付は逝去日の5月30日)。6月13日には、両国国技館に於いて北の湖日本相撲協会理事長(当時)を葬儀委員長として日本相撲協会葬が執り行われた。戒名は霊友会からの「誠生院法憲祐幸智徳善士」と天桂寺からの「双綱院貴関道満居士」の二つが在る。, 『大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史』(杉並区立郷土博物館編、1991年), 一説に酒に酔って暴力を働いた責任を問われて、兄である二子山自身の手で強制廃業に追い込まれたともされる。 参考となる証言, 厳しい指導を行った動機として、実際に二子山本人が「陸奥之丞は甘やかしたから出世しなかった。」と発言していた。, 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p186, サイトや書物などで「みつお」と表記されているものが多いが、NHKの大相撲放送でアナウンサーが「まんろう」と紹介していたこともあった。どちらが正しいかは、定かでない。, 『東京ガス 暮らしとデザインの40年 1955→1994』1996年2月1日発行、株式会社, 【連載 名力士たちの『開眼』】大関・貴ノ花利彰編 カミさんのために、そしてこの子らのためにも――[その5], https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=貴ノ花利彰&oldid=80134762, 花田 満→貴ノ花 満→貴ノ花 利章→貴ノ花 利彰→貴ノ花 満郎→貴ノ花 健士→貴乃花 健士→貴ノ花 利彰, 技能賞:4回(1971年3月場所、1971年9月場所、1972年5月場所、1972年7月場所), 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p102-104, ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年).

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